テレビで見ていたスター達と…

とてもとてもお久しぶりです。絶賛国試勉強中のSEED:Pです。


先日ふと、昔のクイズ番組(10年前くらい)のことを思い出しました。


その番組とは『頭脳王』というもので、河野玄斗さんや水上颯さんが優勝した話題は皆さんもご存知かもしれません。


その初代と2代の優勝者が東大医学部の亀谷航平さん。また第1回から第3回にわたってベスト4に入った京大医学部の廣海渉さん。


彼らは当時中学生だった僕にとって、意味がわからない程の知識を有する、いわば "知のヒーロー" 達でした。


彼らの影響もあって、自分はより深く、広く様々な分野の勉強をするようになったといっても過言ではないでしょう。


そんな "ヒーロー" 達と、自分も今医師として、同じ舞台に立とうとしている…


それをふと感じ、えも言われぬ感動を覚えたのが、今回のブログのきっかけというわけです。


なんというか、一度考え始めて、考えれば考える程、ますます感動が広がるんです。


あの頃は雲の上の存在だった彼らと、同じ職種で(もしかすると同じ現場で働くことも…?)働けるところまで来ている。


そう思うと、勉強のやる気もますます出てきますし、これまでの自分の歩みを振り返ると、遂に自分もここまで来たか、という自信が湧いてきます。


当時の自分はこんな未来を夢にも思わなかったことでしょう。


人生はとても不思議で、面白いなぁとつくづく感じます。


残り半年、学生として様々なアクティビティを楽しみつつ、勉強もしっかりやって、4月から無事に医師としてのスタートを切りたいと思ってます。


以上
〜スキューバダイビング帰りの車内より〜

努力が身を結ぶ話

お久しぶりです。夏休みが暇すぎてブログもたくさん書けたらいいなぁと思う今日この頃です。


さて、皆さん


『努力』してますか?


まぁ人それぞれですよね笑

いきなり上から何なんだ😠と思われるかもしれませんが、今日はその『努力』について書こうかと思います。


まず初めに『雨乞い』をご存知でしょうか?

日本で古くから行われてきた雨を降らせるための儀式みたいなものです。やり方はそれぞれあって、演舞をしたり、祈祷したりと気になる方は調べてみてください。

そんな雨乞いですが、なぜ古くから各地で行われてきたかと言うと、“成功率が高い”からだと思います。


「そんな馬鹿な」「意図的に気象なんて操れるはずがない」と思う方がほとんどでしょう。まさか本当に神様に願いが通じて雨が降るなんて、当時の人達以外は考えないと思います。

実際、(たぶんそうだと思いますが)神様の力とかでは無いと思います。勿論、当時の人々はそれが信仰によるものだと信じてたからこそ、雨乞いの文化が続いてきたのでしょう。


じゃあなぜ成功率が高いのか?


それは単純な話で、“雨が降るまで雨乞いを続けたから”に尽きます。

なんじゃそりゃ笑って感じでしょうけど、おそらくそういう事だと思います。

雨が降るまで続ければ、雨乞いは見かけ上成功と言えます(勿論実際には雨乞い関係なく、たまたま雨が降っただけです)。

でもまぁ必死に雨乞いの儀式をして、やっと雨が降ったわけだし、「雨乞いが成功した!」って思わないとやってられない気もしますね笑。


とにかく雨が降るまで続ければ、雨乞いは100%成功するわけです。



これで長い前座が終わりまして、ようやく本題の『努力』について入ろうと思います。長らくお待たせしました🙇🏻


“努力が実を結ぶか?”という問いには本当に人それぞれの回答があるかと思います。「絶対に実を結ぶ」という人もいれば「必ずしもそうではない」という方まで多様ですよね。

特にどの意見が正しいか、間違っているかなんてことも無いと思います。ここではあくまで僕の考えをお示しするのみです。したがって、あくまで “1つの意見に過ぎない” ことを念頭に置いて読み進めていたたければと思います。


で、僕がどう考えているかというと、まさに前の『雨乞い』と同じようなものだと考えています。


『努力が実を結ぶ』というのはすなわち、『雨が降るまで雨乞いを続けた』ということと全く同じです。雨は時と場合によってはすぐに降ってくれるかもしれないし、全然降ってくれないこともあるでしょう。


“雨乞いをしても雨が降らなかった” のではなく “雨が降る前に雨乞いをやめてしまった” というのが、僕の意見です。

逆に、雨が降る気配が無くても、ひたすら雨乞いを続けきることができた人は、『努力が実った人』ということになります。


なので夢が叶うまで努力をすれば、いつかは叶うということになるのですが、それがいつかはわからないんです。

人間には寿命という大きなタイムリミットがあるわけですし、その中でも “制限時間” に縛られる場面は多々あるかと思います。

その辺りの話はまた別に書こうと思いますので、今回は割愛しますが。


この雨乞い理論はけっこう応用が利かせられる話で、「〜が見つからない」とか「〜できない」みたいな時にも、見つかるまで探したり、できるまでトライするといった捉え方ができるようになったりもします(それが正しいかどうかは別ですが)。


あとは雨乞いを続けられる体力、精神力にかかってきます。そこはもう完全に人それぞれだと思うので特に言及はしません。


「この雨乞いが成功するか?」と考えることも勿論大事ですが、「雨が降るまで雨乞いし続ければいいんだ」と考えるのも、これまた必要なのかも知れません。

誰が為のアンチテーゼ

お久しぶりです、SEED:Pです。

普段文章を書く時は、内容が先にあって最後にタイトルつけるタイプなのですが、今回は珍しくタイトルが先に浮かんで来たので、そのまま筆を走らせようと思います。


さてタイトルにある「アンチテーゼ」という単語は聞き慣れない方が多いかと思います。自分も高校の倫理以外で耳にしたことはないです。


これは哲学者のヘーゲルが提唱した「弁証法」という考え方の一端です。まずそちらについて解説します。


世の中にはたくさんの命題 (意見と言ってもいいでしょう) があります。そしてそれには必ず対立する命題 (反対意見) が存在します。

これらがぶつかり合うことでより良い意見が生まれるのは、日々会議や討論がなされることの意味にもなるかと思います。

こうして2つの相反する意見の衝突によって、よりレベルの高い意見にまとまり、これが繰り返すというのがヘーゲル弁証法です (わかりやすさのために、だいぶざっくり説明してます笑) 。


ここでの命題を「テーゼ」、対立命題を「アンチテーゼ」、最後にまとまった命題を「ジンテーゼ」と言います。


1つ例を挙げると、「高校は制服がいい」というのをテーゼ、「高校は私服がいい」というのをアンチテーゼだとします。この両者がぶつかると、「制服も買えるが、私服で登校してもよい」みたいな意見になったとします (あくまで一例です) 。この最終意見をジンテーゼと言います。

そしてこの一連の流れ(テーゼとアンチテーゼがぶつかりジンテーゼになること)を「アウフヘーベン」と言います。


お分かりいただけましたでしょうか?笑
「いきなりこんな話をして何なんだ」とお思いのことでしょう。

しかしここまでは前置きで、これから本題に入ります(お疲れの方は一旦休憩してもいいかもしれませんね☕)。


自分はこのヘーゲル弁証法はとてもしっくりきています。まぁわりと現代的な考え方なのかもしれません。


そして「自分は他人にとって、世間にとってのアンチテーゼでありたい」というのが秘かなパッションとしてあるわけです。

"あまのじゃく"とか"逆張り"とか思われるかもしれませんし、実際その側面もあるかと思います。


自分はある命題がアウフヘーベン無しではとても脆いものだと考えていて、説得力も無ければ、独り善がりなものになると思ってます。

だからこそ自分のアイディアに対するアンチテーゼは大歓迎だし(なんなら自分から探しに行くぐらい)、他人のアイディアに対しても何かしらアンチテーゼを当てたいんです(これはなかなか難しい時もありますが)。


これはテーゼの側とアンチテーゼの側と、どちらのためにもなるシステムだと思っています。あくまでアウフヘーベンとは双方の要素を組み入れた新しい命題へと昇華することであり、どちらか一方の命題が勝ち上がるようなものではないからです。

ここまで読むとただの面倒臭い人になってるかもしれません笑

あまのじゃくや逆張りと違うのは(少なくとも自分でそう思っているのは)、言動に根拠があること、他の意見や主張も理解した上でのアンチテーゼであることです。

ただ頭ごなしに否定、反論するつもりは無いですし、それでは「高い次元に昇華する」という弁証法の話とはずれてしまいます。


あくまでも自己を高めるため、他人と高め合うためのプロセスだと自分は認識しています。


現代では周りと同調するような風潮が多々見受けられ、 "本当に自分らしいこと" がやりにくく、息苦しさを感じる場面もあるかと思います。

でも自分の中で確たる思い、主張があれば周り関係なくぶつけてみても良いかと思います。

そんな中でこのような考え方がその一助になれば幸いです。


誰かにとってのアンチテーゼであること、意外と悪くもないんじゃないですか?

「うっせぇわ」について思うこと

最近賛否両論が巻き起こっている、Adoさんの「うっせぇわ」という楽曲。今回はこれについて思うところをつらつらと書いていきたいと思います。



個人的な感覚では、ティーンエイジャーを中心に支持されていて、親御さんの世代からは子供への悪影響が~とか騒がれてるイメージがあります。

そりゃいきなり自分の子どもが「うっせぇわ!」とか言い出したら誰だって驚くのは当然のことでしょう。


それはさておき、まずなぜこんなに流行ったのかという僕の考えを少し。


1番は共感を得てるとこなのかなぁと思います。誰だってこの歌詞のレベルほど強烈ではなくとも、日常生活の中でこうした感情は少なからず生まれてるものだと思います。僕もあるし。


そして普段はそれを上手く抑えたり、趣味で発散したりして皆さん過ごしてると思います。それがストレスになってることも多々あるでしょう。そんな感情をもろに、強烈に、この曲は歌ってくれてるわけで、聞いてて痛快な気分にもなるし、ストレス発散にもなってるんだと思います。


テレビでも毒舌キャラが人気になるように、言いたいことをバンバン言ってくれる存在というのは大きい。僕も何でも言っちゃう側の人間ですが、言いたくても言えない、という人もたくさんいると思います。


そうした人にとって、何でも言ってくれる存在は力をくれるし、その存在に共感してる人達をネット上で見るだけで、「こんなにも同じ気持ちの人がいたんだ😭」とかなって救われることもあるんじゃないでしょうか、しらんけど()


だからまぁ、この曲で気分が良くなるかは別として、全く1㍉も共感できないという人は少ないのではなかろうかと思います。



僕はこの曲にドハマりしてたり大好きな人に対して、特に何も思いません。イタいとか、厨二だとか感じないです。ぶっちゃけ自分もそんな感じだし。


ただ、大の大人がひたすらこの曲のようにしてるのはいかがなものかとは思います。学生ぐらいまでは、自分じゃどうしようもない環境要因とかもあるし、ただひたすらに内面で「うっせぇわ」と思ってる時期はあってもいいと思います。特に反抗期とかまさに親に対してこういう状態なんじゃないですかね、自分は無かったからわかんないけど(隙あらば自)。


けれどもやっぱり最後は自分を含め、変えていく必要がある。ただただ「うっせぇわ」と思ってたって周りは変わってはくれないし、自分にストレスがかかり続けるだけです。


僕がこの曲で唯一気に入らないのは "自分は天才、周りは凡人。頭のできが違うからもうしょうがない" という諦念があるところです。


学生ならどうせ卒業したら関わらないし、それでいいのかもしれません。しかし社会人になるとそうもいかない。どんなに気が合わない人とでも一緒に仕事はしないといけないし、どんなに無理な人でも上司は上司なんです。転職したって多分また似たような人がいることでしょう。


だから少しは自分も変わらなきゃいけない。そのためのエネルギー源が、こういう「うっせぇわ」という感情なんだと思います。何かを変える時というのは、よかれあしかれ "現状に不満足" である時だと思います。


一時的にこの曲を心の拠り所にするのはいいけど、いつかは自力で周りと折り合いをつけないといけないと、僕はこの曲を聴いてそう思うわけでした。



世の中難しいね。

読書のすゝめ

春休みに入って久しぶりに読書をすると、やっぱり良いもんだなぁと思う今日この頃。読まずに積まれた本を消化しなきゃ...


さて、読書は小さい頃から周りの大人に口うるさく推奨されてきたのではないかと思います。とは言っても本の好き嫌いはあることだと思います。ぶっちゃけ自分も小学生の頃は読書とか全然嫌いでした(ゲームの攻略本とマンガは大好きでしたが)。


"読書"と言うと堅苦しく聞こえるかもしれませんが、要するに活字を読むということです。僕ら人間は日々字を読んでいる。特にSNS等インターネットの発達により、昔以上に文字は読んでるのではないかと思います。


ただ、SNSを見るのと読書はさすがに同じわけにもいきません。それは長さです。こうしたブログを日々読んでいる人は違うかもしれませんが、TwitterSNSにおける文の量はそんなに多くありません。


どうして文の量の話になるかと言うと、文が長いほどその内容も複雑化する、ということです。またそれに伴って読むのにも集中力が要る。今このブログを読んでいる皆さんも、いつもTwitterを眺めてるよりは集中してるはずです。「このブログどこまで続くんだよ😡」とか思われてるかもしれませんね()


もちろん集中力も付くとは思いますが、それ以上に大事なのは"自力で読んで何かを得る"ということだと僕は考えています。


教科書や参考書で勉強するのも、会社の資料を読み込んだりするのも、広義に考えれば"読書"なんです。そして皆さんも経験のある通り、読んだ全てを記憶するのは無理です(サヴァン症候群の人とか一部例外はいますが)。


そんな中で少しでも多くの情報を頭に整理して入れていくためにはトレーニングが要るわけです。それが読書。だから趣味で本を読む分には、内容が全くわからなかったり、ちゃんと読んだはずなのに頭がごちゃごちゃになったりしてもいいと思います。自分もそういう本にたくさん会いました。


ただそれを繰り返していくと、自然と少しずつわかりやすくなったり、頭の整理がしやすくなったりしてくるんです(こればかりは経験してもらわないと伝わらないですが)。


フィクションの物語でもこれは同じで、一冊を通して自分なりの新しい何かが1つでも得られれば十分だと思います。そうした経験の積み重ねで読書って成り立つもんだと思っています。


読書の苦手意識が強い人は観たことのあるアニメのラノベとかはオススメです。自分も最初はそこから入りました。あとはとにかく本屋に行ってみることも大事だと思います。だいたい気を引く本が見つかるはずです。


まずは内容が理解できるかなどは関係なく、とりあえず読んでみてほしいと思います。そうすると一気に世界が広がっていくことでしょう。



以上拙文でしたが、最後まで読んで頂きありがとうございました。🙇‍♂️

ブログ始めてみます(テストも兼ねて)

最近ふと何かを書きたいと思うことがあったので、始めてみようと思います。

普段誰かのブログを読んでるわけでもないし、ブログや日記の経験も全く無いですが、ただ思うことを書き連ねていきたいと思います。

更新頻度とか内容とかも完全にテキトーです。よろしくお願いします。